Blissful Touch ―ダンスをもっと美しく、もっとナチュラルに。

ダンサーのためのコンディショニング・サロン「ブリスフル・タッチ」公式ブログ。ヒトが0歳児の時に行う原始的運動メニューを分析し発展させた運動プログラム「ナチュラリゼーション」を中心に、ダンサーの皆様と地域の皆様の美しく健やかな身体づくりをサポートしています。

対なるものを結ぶ懸け橋

バレエに限らず
何か既に学習している動きを
その括りの中で(つまりバレエならバレエとして)
動こうとするとき
もう動き出す前から既に動きは始まっていると
ずっと昔から感じてきて
それは、ただ歩くというような日常の中にもあり
それら動きが始まる手前に
働きかけていくことはできないのだろうか?
という問いから身体や動きを探り始めたのが
20年くらい前になります。

私が求める自然さは
そこからしか生まれてこないように思えたから。

けれどもいつしか
それは多分永遠に悟ることはできない
寧ろ、「悟り」や「わかる」とは対極的なところに
あるものなのだと感じるようになりました。

にもかかわらず
わかろうとすることから解放されて動き続けるほどに
求め続けてきた質感が
日常の些細な動きの中にひょいと顔を出すような
おそらく傍から見ればちっぽけなことの一つひとつに
深く感動したりしている(笑)

そして、そのような感動を覚える度に
記憶としてはもう忘れているような幼き日の感動が
そこにうっすら透けて見えるような気がするのです。

昨夜、三木氏の“ 宿命的な一組 ”という言葉を味わいながら
ナチュラリゼーションは私にとって
その対なるものを結ぶ懸け橋であるように思いました。

自然を見る人間の眼には二種のものが識別される 。そのひとつは “ すがた ・かたち ”を静観する眼であり 、他のひとつは “しかけ ・しくみ ”を抽出する眼である 。このいわば 「左右 」の眼の使い分けによって 、ひとつのものが 、一方では生に満ち溢れたものとなり 、他方では生とは無縁のものとなる 。われわれ人間には実にこのような二種の眼 ─ 言ってみれば “ こころ ” と “ あたま ”の眼 ─が 、それぞれのかたちでだれにでも備わっているものですが 、 「生 」の問題とは 、こうして見れば 、結局はおのれ自身の見方の問題に帰着するよりないことがうかがわれるのであります 。

ところで一般に 、人間というものはだれしも 、はじめはただ無心に “すがた ・かたち”を眺めるだけのものが 、その眼はいつしか “しかけ ・しくみ ”の方へ向け換えられてゆくのです 。さきに述べた生の意味の歴史的な転換はこのことに由来するのでしょうが 、それはそれとして例えば 、病人を前にしたわれわれもまた “病めるすがた ” をただ痛ましく 「看 (み )護 (まも )る 」だけではない 。次の瞬間にはその “病めるしくみ ”を少しでも早く 「なお (治 )す 」方へめいめいの考えを向け直す 。つまりそこでもまた “ こころ ” から “ あたま ”の問題へいち早くスイッチが切り換えられてゆくのであります 。人びとが明けても暮れても口にする 「看護と治療 」の問題が 、実はこうした人間の持つ対立的な二つの機能に端を発した 、それでいて切っても切り離すことのできない 、 “ 宿命的な一組 ” のものであることが 、これで解明されたのではないでしょうか 。

三木成夫『生命とリズム』河出文庫

 

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さて、今日は和泉多摩川と江の島でレッスンです(^^)