Blissful Touch ―ダンスをもっと美しく、もっとナチュラルに。

ダンサーのためのコンディショニング・サロン「ブリスフル・タッチ」公式ブログ。ヒトが0歳児の時に行う原始的運動メニューを分析し発展させた運動プログラム「ナチュラリゼーション」を中心に、ダンサーの皆様と地域の皆様の美しく健やかな身体づくりをサポートしています。

再掲「素晴らしき水車」

2007年の個人的なブログに書いた記事です。

当時、私はまだセラピストではなく一探求者でした。

PTの道に進もうとしている娘にと

買い求めた本からの徒然で

稚拙な内容ではありますが

今、再びそこに帰ってきて

当時、求めていた「コンタクト」に

今、確かに応答があったと感じるのです。

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この冬に受験を控えた次女に
彼女が進もうとしている道について
まだ、その手前のまっさらな状態の今だからこそ
初心を深く掘り下げて考えてみて欲しいなと思って
何かきっかけになる本を探している時にたまたま見つけた
現代思想 2006年11月号 特集=リハビリテーション
ムック本だが、とても充実した内容の一冊だった。
これはまだ娘には難しいかもしれないので^^;
彼女には別途
わたしのからだをさがして リハビリテーションでみつけたこと
というクライアントと療法士の間の往復書簡形式の本を買い求めたが
私自身がこの特集に掲載された様々な記事を読み
いろいろと考えさせられた^^;
認知運動療法というものを少し垣間見ただけでも
リハビリテーションというものの捉え方に
ほんのちょっと広がりが出たようにも思う。

その中で印象的だった記事が

素晴らしき水車 
ルイジ・ピランデルロのテキストに対するリハビリテーション的変奏
 / カルロ・ペルフェッティ (訳=小池美納)

ピランデルロの短編「夕べ、ゼラニウムが」をもとに
患者のフィオレンツォの詩と
セラピストのアルドの語り
そして合唱を加えて
リハビリテーションの視点からの変奏を試みたという作品の
フィオレンツォの詩の部分。

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僕は目を閉じる
そして自分の身体の中に身を沈めてゆく
身体の中を辿ってゆく
あらゆる場所に入り込み、観察する
そして、それらの声に耳を傾ける
足裏・・・踵・・・ふくらはぎ・・・膝
腿・・・股関節
骨盤・・・下腹と背骨の付け根の部分・・・腹
そして背中・・・胸部と肩甲骨・・・肩
右の肩・・・腕・・・肘・・・前腕・・・手首と右手
左の肩・・・腕・・・肘・・・前腕・・・手首・・・左手
両肩・・・首・・・頭部
自分の身体がまっすぐなのを感じることができた。

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僕は自分の安定を見つけた。
たくさんの間違いからなる均衡の中に
そして僕は鍵を探す
感覚の記憶の中に
全てが手探りの試みだ。
少しずつ・・・できない
目を開けると鏡の中には
僕の苦渋が
等身大に見える
すぐにも修正したいと強く思う
けれどもう一度自分に戻ることが必要だ
目を閉じて耳を傾ける
そして探してみる・・・さっきより良い
ゆっくりと
ためらいながら道を探して
さまよう
暗い迷路の中を・・・
様々な感覚でできた迷路
どれも正しいように思えていたのに

身体内感というのだろうか
単に身体のパーツとしての部分の
機能を回復させるというような事ではなく
脳の中にある身体を治療・・・
というよりは創造していくということなのかな
そんな印象を受けた。
そして、それはどこかで
日々自分が行っていることと通じるところもあるように感じる。
何らかの事故や病気で
身体を感じることや動かすことが
できなくなってしまった訳ではないけれど
でも、やはり当たり前のように「感じていた」つもりの
身体や動きを辿りなおしている。
聞こえなかった声とのコンタクトを試みている。
外に結んだ像としてのイメージではなく
もっと内側の感覚に寄り添ったところで。

感じていなかった感覚というものに
時折出会うこともある。
そんな時、自分自身の身体との距離感が微妙に変わる。
不思議と物事の受け止め方すら変わってくる。
そんな体験を、どこかで重ねながら
このテキストを読んだ。

最後の詩の一節にあった

「自分のポケットのどこかに
自分の人生がきちんとしまってあるという感覚」

という言葉。
身体を感じるということは
そういう安堵感に繋がるものでもあるのかもしれない。

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