Blissful Touch ―ダンスをもっと美しく、もっとナチュラルに。

ダンサーのためのコンディショニング・サロン「ブリスフル・タッチ」公式ブログ。ヒトが0歳児の時に行う原始的運動メニューを分析し発展させた運動プログラム「ナチュラリゼーション」を中心に、ダンサーの皆様と地域の皆様の美しく健やかな身体づくりをサポートしています。

「触れる」文化と遠距離感覚器

今日は先日ちょっとご紹介した

多田道太郎の「しぐさの日本文化」から

『触れる』という章について少し綴ってみたいと思います。

このエッセイが日経に連載されていたのは1970年代初頭

今から35年以上前になります。

多田氏はその当時の日本人について

概していえば、私たちには「触れる」ということについての禁忌が無い。だから町で肩と肩が触れても(ぶつかれば別だが)、とくにどうということも感じないのだろう。

と、綴る一方で、その当時ロンドンで「ドゥ・タッチ運動」が起こっていることを取り上げ、

個人の孤立を好むといわれているイギリス人でさえ、そういう傾向があらわれてきたとすれば、これはよほど重大な、そして、おもしろい事実である。

としています。

そして

人間が道具を使うことで「進歩」してきたことは周知のことだが、私たちの身のまわりを見ても、道具は人間の肉体の延長である。鋏は指の延長だし、ハンマーは腕の延長だし、自動車は足の延長である。ところで、電話やテレビは、これは言うまでもなく、聴覚や視覚の延長である。こういう「遠距離感覚器」の発明によって、文明をより複雑にし、より巨大にし、より効果的にしてきたのが、人間の「進歩」というものであった。こうした道具、機械となって「延長」できない感覚は、逆に、おとしめられ、排除されてきた。


…中略…


人間の感覚を局所化し、人間の労働を企業化していく文明とは違った「文明」を構想していく必要がある。

 近現代人は意識化し、コントロールできるものだけを貴重な文化と考えてきた。視覚・聴覚がさまざまの芸術を生んできたのはそれゆえである。しかし、そこでは何が抑圧されてきたかを、もう一度考える必要がある。「触れる」ことを禁忌化してはこなかった日本文化は、この点で示唆を与える。

と、結ばれていますが

この文章が書かれた時代から35年以上経って

日本人の「触れる」ことへの意識はむしろ西洋化し

逆に西洋から「タッチ」の必要性についての考えを学び

「触れ方」を学んでいる…

おかしなものですね。

この時代には普及していなかったPCやインターネットが加わり

その恩恵もある一方で

その巨大な遠距離感覚器網によって

「触れる」ことなく済ませてしまえることは

ますます増えています。

このエッセイが長い時を経て

今、日本人である私たちにも

問いを投げかけているように感じました。

人に不快な想いをさせるタッチは

もちろん許されないものです。

けれど、心が通い、心を支えるタッチは

大事にしたいですね。

※ちなみに遠距離感覚器という言葉は

松岡正剛氏のエドワード・ホール著「かくれた次元」のレビューの中でも登場しています。

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