Blissful Touch ―ダンスをもっと美しく、もっとナチュラルに。

ダンサーのためのコンディショニング・サロン「ブリスフル・タッチ」公式ブログ。ヒトが0歳児の時に行う原始的運動メニューを分析し発展させた運動プログラム「ナチュラリゼーション」を中心に、ダンサーの皆様と地域の皆様の美しく健やかな身体づくりをサポートしています。

「考える人」を考える

The_thinker_maitreya

【左】 弥勒菩薩半跏思惟像

出典:上代の彫刻(小川晴暘 上野直昭/朝日新聞社 昭和17年)

【右】 ロダン 考える人

出典:Oleksandr Tkachuk(Depositphotos)

ロダンの「考える人」

人が何かを思い詰めた時

考え込む時

自然とこんなポーズになりますよね。

身体の前側を縮め

窮屈になった胸、お腹

丸まった背中

考えることで更に重たくでもなったようなアタマを

支えるために顎を押さえ込み…

あ~、見るからに苦しそうです(笑)

このようなポーズにならなくても

何かを考え、囚われている時

私たちの身体は

こんな風に内に篭るように縮まろうとする緊張が

生じてしまうものなのだと思います。

一方、

弥勒菩薩の半跏思惟像はどうでしょう?

縮まること無く

でも、背筋を伸ばそうなどと頑張ってもいない

ふわりと広がった体腔

リラックスした口元に

ただ、軽く添えられた指先。

そこには「考え」に囚われて

内に篭ることなく

宇宙や自然と繋がりながら

リラックスして

大きな全体の中で想いを巡らせているかのような

美しさがあります。

解剖学者、発生学者の三木成夫は

海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想」の中で

こんな風に綴っています。

ロダンの「考える人」については

これは要するに「近」に繋がっていることの証明ではなかろうか。そして、こゝで大切なことは人間のみに宿る「精神」の機能が、「自我」の意識作用として、この動物極、いわゆる「肉体」を大きく支配する、というこのことであろう。人間の「近感覚」は、こうして、どんな動物にも見ることのできない、独自の色彩を帯びることになる。

弥勒菩薩半跏思惟像には

つぎに左は、一見して明らかなように「遠」との交流を示す、したがって「近」の束縛からは、解き放たれた姿であろう。こゝには“あたま”を押さえるものがなく、胴体も手足も、筋肉はのびやかに、その半眼に閉ざされた双の眼とともに、反動を準備する緊張はみられない。一方、微笑を浮かべた口許には、小宇宙を象るような指の輪が添えられ、真直ぐに伸びきった体軸と相まって、こゝには、あの天地を結ぶ循環路に挿入された樹々の霊が、微かに浮かび上がってくるのであるが、こうして見ると、その胸もとの、まぎれもない、ほのかなふくらみとともに、この半跏の像の意味するものが、にわかに明らかとなるではないか。

 それは右とは対照的に、感覚門を閉ざして栄養面を開いた、いいかえれば、微睡む動物系に代わって、宇宙リズムと秘めやかに共振する植物系の、その内に深く蔵されたこゝろを、表そうとしたものではないか。

「遠」との交響の図であろう。

そして、同じ本の中に

このような文章もあります。

こうして見ると、植物のからだとは、いってみれば、根の延長として大地を従え、葉の延長として天空を戴く、文字通り宇宙を包含するような規模を持つものであることが推察されるが、こゝでさらに、その体軸が、地球の球心を貫く力線とみごとに対応していること、あるいはさきに述べた、その生の波が、地球の描き出す螺旋軌道に完全に重なっていることなどを考えてみると、いったい植物の生とは、時・空の両面で、この宇宙の網の目に、固く織り込まれているものではないか、ということになる。

 クラーゲスは、このような植物の生きた姿を見て、そのからだには”「遠」が居合わせている”と表現した。それは、かれらの体細胞が、かつて地球から、いわば生きた衛星として分身した、遠い過去の物語りを、そのDNAが、みづからの渦巻模様の中にひとつの「生命記憶」として、完全に刻印しつくしていることを意味するものであろう。もともと、感覚と運動に携わる、なにの装置も持ち合わせない、熟眠状態のかれらが、いったい地球の中心に向かって根をおろし、天空の頂点に向かって茎を伸ばしていくのは、なにゆえか。また、春の到来とともに開花前線を北上させ、秋の到来とともに紅葉前線を南下させるのはなにゆえか。

こゝでは、それは、自分と宇宙を結ぶ太い絆のはたらきによる、というよりも、そうした「遠」の記憶の声に促されての自然の結果、と説明するよりない。これを「遠」の観得 Schauen と呼ぶ。

ゆるりふわりと佇むことの心地よさは

どこか、この「遠が居合わせる」あり方を

体験しているような感覚

そう感じて、かつて何度も読んでいた本を

再び紐解いているこの頃です。

在ることに寛ぐとは

より大きな全体と繋がる余地を

自身の内に開くことなのかもしれません。

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