Blissful Touch ―ダンスをもっと美しく、もっとナチュラルに。

ダンサーのためのコンディショニング・サロン「ブリスフル・タッチ」公式ブログ。ヒトが0歳児の時に行う原始的運動メニューを分析し発展させた運動プログラム「ナチュラリゼーション」を中心に、ダンサーの皆様と地域の皆様の美しく健やかな身体づくりをサポートしています。

呼吸

呼吸に意識を向けることが好きです。

それは、操作するためではなくて

ただ、感じるために。

通常、何ら努力をはらわずとも

私たちは呼吸しています。

当たり前のこと?

でも、当たり前であること自体がすごいこと。

生命を維持するために必要な働きは

色々あるけれども

そのもっとも必要不可欠な活動が

コントロールせずとも

なされているということ。

操作しようと思えば

ある程度はできるのが呼吸です。

でも、何もせずとも

それは許されている。

それを感じることは

あるがままの自分が許されているということを

感じることでもあるのです。

そんな風に感じながら呼吸する時

それは大きくとも小さくとも

その波のピークから

身体の末端まで涼やかさがふわっと広がります。

身体の中に海があるように。

今日は、三木成夫の「海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想」から

呼吸に関する一節を。

たとえば、道を歩いていていきなり車がぶつかりそうになったとき、だれしも一瞬ハッと息をのむ。水溜りをよけるとき、ぬかるみを渡るときも結局これと同様で、一般にわれわれはひとつの仕事をするときも(ものを考えるときもおなじであるが)、文字どおり息を凝らしてひたすらこれに打ち込む。

 このことを逆にいえば、呼吸に専念しているときは誰でも隙間だらけであるということであって、むかしから真剣勝負では息を読みとられたほうがすなわち負けといわれた。

 つまり「動作」と「呼吸」はけっして両立しえないものであって、われわれがいわゆる"ひと息つく"のは、ひとつの動作からつぎの動作に移るその間に限られる。これを「間」とよぶ。行司のかけ声、歌舞伎の呼び声など、いわゆる合いの手がはいるのはまさにこのときで、古来この瞬間をもっとも色あざやかにえがきだしたものが「能舞台」にみられる鼓と"笛の音"であるという。すなわち、ここでは「舞い」と「囃し」の呼吸のリズム、つまり息が合わなければ、それは文字どおり「間」違いとなってくるのであるから…。

"気(=息)が合う"とはまさにこのことをいったものであろう。

 むかしからわが国では"気は心"といわれ、それかあらぬか「息」の漢字が「自らの心」となっている。呼吸が心情の表現であるのは西洋とても同じで、要するに"気が合う"のは"心が通う"以外のなにものでもないのであろう。だから心の交流のない人間関係では、たがいに「間」がもてず、間のび、間ぬけとあらゆる間違いが起こってくるのであって、ここからやがて相手の「間」になんとかして合わせようとする、文字どおり"間に合わせ"の計算努力がはじまる。

 すなわち、呼吸の流れが随意筋のいわば人口のダムにせき止められ、自然の「間」が人為の「休止」(定休日、休み時間、洋楽の休止符などなど)にとってかわって、ついに自らの息もつけぬ人生がはじまることとなるのである。

人と人との交流―それは、心と心のふれあい以外のなにものでもない。ここで要求されるのは、文字どおり「間ごころ」だけなのである。

 われわれは子どもの時から「真心」を教わってきた。いわば人間関係における最後の切り札として……。

しかし心に「真偽」の別なぞ、もちろんあろうはずはない。誤りがあるのは判断だけなのだから……。すなわち、ここでほんとうに大切なものは、自分もふくめて人の「間」を知る心だけなのであろう。

 いまもしこの保証がなければ、いかなる、たとえば看護の理論もそして技術も、しょせん「間に合わせ」までのものとなることを、ここであらためて思い知らねばなるまい。

「海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想」三木成夫 人間の呼吸(いき) より

海・呼吸・古代形象―生命記憶と回想