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Blissful Touch ―ダンスをもっと美しく、もっとナチュラルに。

ダンサーのためのコンディショニング・サロン「ブリスフル・タッチ」公式ブログ。ヒトが0歳児の時に行う原始的運動メニューを分析し発展させた運動プログラム「ナチュラリゼーション」を中心に、ダンサーの皆様と地域の皆様の美しく健やかな身体づくりをサポートしています。

アド

バラの園や旅
「いつか行こう」と思っていたことを
少しずつ実現しているこの頃ですが
先日、この秋、横浜の関内ホールで催される
狂言の舞台のチケットを購入しました。

鎌倉に暮らしている時分に能には少しだけ触れる機会がありましたが
狂言の舞台はまだ観たことがありません。
型の中で生まれる「笑い」を体験してみたいと思ったのと
所謂、身体操作だけでなく
息づかいのようなものに生で触れてみたいのです。

舞台を楽しむために
少し予習しておこうと狂言について調べたら
そこに「アド」という文字が。

主役の「シテ」に対する脇役のことで
語源は、受け答えをするという意味の「あどうつ」とも、
率いるという意味の「あどもう」ともいわれるそうです。

うちの犬は「アド」という名前ですが
保護犬なので来た時には、すでにそのように名付けられていて
誰にどういう由来でそう名付けられたのか不明でしたが
もしかしたら、そんなところからついた名前なのかなと
思ってもみたり(笑)
古い言葉に触れるのも楽しいです。

高校の古文の時間などは、眠気との格闘でしかなかったのに(笑)

当時、何の役に立つのだろうと考えていたような事が
やはり、人生の体験を豊かにする礎であったり
長い時代を経ても読み継がれてきたもの
残ってきたものの中に在る本質に触れていくために
必要な事だったのだと
歳を重ねるほどに思います(笑)

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ホッとするような居心地

身体や動きに対して自ら
こうしてはいけない、こうならねばという
文脈で意識し続けてきた長い時間の中で
深いところまで根付いてしまっていたものの残骸が
根っこのところで働こうとするのを見付けては
薄紙を剥がすように、少しずつ少しずつ解き放っていく。
でも、そのたびにご苦労様という気持ちも
どこかで感じながら。


今月、そんな感覚を覚えるのがスパイダー。
そうして、またちょっとずつ
不要になったものが解き放たれていく中で
少しずつ仙骨まわりの感覚が変わっててきて
尾骨脇にその動きの際の弾力が増してきたのを感じます。

左と右とで微妙な違いもあるけれど
そうして、骨盤の領域にまた少し
細分化されていく感覚が生じるようになると
自分の肋骨と骨盤との間の
スペースの感覚とでもいうのでしょうか
何かまた少し違う
どこかホッとするような居心地が生まれてきて
黙々とワークすることと
新鮮な身体の居心地を味わうのがただただ面白くて
ついついネットから遠ざかってしまうこの頃(笑)

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カラダの居心地に新鮮さを覚えるせいか
何故か急に、髪も思い切って短くしたくなり
30センチほどバッサリとカットして戴いて
更にリフレッシュした感じです(笑)

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括ろうとする本性

家族の反応からの徒然

昨夜、足の脱力のワークをしていたところに帰宅した長女が
「それ、毎日やると良いらしいよ。」と
おそらく、彼女が通っているヨガ教室で学んだ
エクササイズと同じものと認識して言いました。

身内でも、いえ身内だから余計にかもしれませんが
本人が求めてこない限りお節介はしないので(笑)
彼女はナチュラリゼーションを知りませんから
それはそれで、当然の反応かと思います。
「どう、身体を動かすかによって
全く違う運動になるんだよ。」
とだけ返したら、「?」といった感じ(笑)

その「?」をそのまま流すか
その先を問い進め、考えていくか、体験していくか
それが未知と出合うか出合わないかの分かれ道なんだよ
と、心の中で思いつつ
PTの次女は、以前いくつかワークを教えた際に
「これ〇〇筋使うの?」という感じで
やはり、彼女の知識と経験にすり合わせて
先ず理解しようとするのを思い出したりもしながら
脳は、そんな風に既知のことに仕分けをするように働くもの、
それで括って「わかった」にすることで
安心するものなのだろうと改めて感じさせられました。

もちろん、それは生きていく上で必要なことでもあるのですが
ナチュラリゼーションを学ぶとしたら
その括ろうとする本性から
どれだけ自由になって体験していけるかが
やはり、鍵になるのだろうと思います(^^)

 

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ちょっと進んでは、「出直してきます」の繰り返し

私は今、50mとか100mとか
ちょっと距離を長めに這う時間を持つようにしています。

たくさん這うと
ちょっと右手の母指球にきつい感じが出てくるなあ、と気付く。
つまり、そういう体重の流れ方になる動きの癖があったり
そういう癖に繋がる「鎖」が、まだあるということで
「出直してきます」ということになるわけです(笑)

ワークをワークとしてやるだけでは
見落としてしまうこともあって
例えば、肘のワークなどでも
ワークとして集中してやっているときは
少しはマシになってきているように思えたことも
何かの拍子に、何の気なしにそのように動かしてみると
「あっ!左の小指が出しゃばってるではないか(-_-;)」
と、気付いて、また指のワークや
手の脱力やターンアウトのワークから
しつこく(笑)繰り返す。

ナチュラルがデフォルトになる道のりは
本当に遠く思えるのですが(遠い目)
それでも、そうした「出直しポイント」の発見は
やはり、のびしろの発見でもあるので
「う~~っ;;;」と発見の瞬間は思いつつも
やはり、楽しいのです(笑)

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このところ載せている薔薇の写真は
先日、横浜イングリッシュガーデンで撮影したものです。

 

絵に表れる身体感覚、自然との関わり

今日は「生物の進化に学ぶ乳幼児期の子育て 」から
印象に残ったことです。

「人間には体があるではないか、頭から手足が出るのはおかしい」などと教わったり、「頭には髪の毛がある」などと言われて描いた子どもは、不思議と前頭葉の部分、つまり創造する人間らしい脳の部分がなく、言われた通り描くが、三才、四才、五才になっても、その後の発展がない。

 

このように地に足がつかない絵を描く子どもの場合、本当に毎日足をつかって歩かせているか、考えてみるとよい。車での送り迎え、家庭でもあまり外で遊ばない、足を使わない子どもの多くはこうした絵を描く。
 手を描かない子も見つかる。これも手の認識が弱いとなれば、過保護であって、何でも大人がしてやっているということがよくわかる。「自分で」と子どもが言っても、大人がやらせず、手を出してこのように発達を遅らせてしまっている。
 失敗しても、「自分で!」という主張を大切にしなければ、絵が正直にその子を表してくれるのである。 

 

目や手足を実際に使っての遊びを重視してやれば、脳の発達によって次第にこれから楽しい絵を描きはじめる。

 この章には、這う運動遊びをしてきた子と
してこなかった子の描く絵も載っていて
確かにそこには、大地も含めた自分と自然との関わりのいかなるかが
如実に表れているのです。

「こうなるのが正しい」などと「教え」なくても
カラダで充分に体験していることを、自由に描かせれば
その身体感覚や体験の豊かさに比例したような
豊かな表現を自ずとしていく。

そして、著者の斎藤先生は
卒園期の直前まで水彩絵の具は持たせず
黒のサインペンのみを子どもたちに与えているそうです。

ですが、その卒園期の子どもたちの水彩作品を見ると
自然と触れ合いながら十分に身体を動かした体験を
少ないツールで、豊かに表現することを
繰り返し行ってきたからこそ
目の発達も微妙な色彩を感じ分けるまで
整い始めた段階になって初めて
いざ、水彩絵の具を使って描いた時
その子たちがそれまで体験してきた全てが
素晴らしい作品となって表れていることが
一目見ただけでもわかります。

 

表現や創造性のベースは
やはり、こうした「体験」に根差したところで
育まれるものなのではないかと思うのです。

 

邪魔をしないことの大切さ
早くに多くを与えすぎないことの大切さ
それはナチュラリゼーションとも
通じ合うもののように思います。

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考えよ。語れ。行え。

お題「自分を励ます言葉」

励まされる言葉として思い出すのは
やはり座右の書である、長田弘さんの『感受性の領分 』の中の
この言葉です。

「考えよ。語れ。行え。」
3つの動詞を、じぶんがどれだけ新しく、ゆたかに生きられるかどうか。

長田弘『感受性の領分』

全文は以下のサイトでご紹介下さっているので割愛させて戴きますが
何かに迷ったとき、立ち止まったとき
夏目漱石の
「真面目に考えよ。誠実に語れ。摯実に行へ。」から
動詞をぞんぶんに生きるということを説いた
「三つの動詞」という章をこの言葉から思い出します。


ありあまる名詞ばかりの世にはばかる動詞は、一つだけだ。
名詞の次に「する」をくっつけた動詞だ。
つまり、名詞があらわしていることをするという動詞だ。

 

名詞は、てんから意味を決めこむ。
けれども動詞は、できあがった意味をもたない。
しっかり動詞を生きなければ、動詞に意味は生まれてこない。

 

私は動詞を生きているだろうか?
どのような動詞を生きているだろうか?
そんなことを再考させられるのです。

真に励まされ、自分を進めてくれるのはやはり
耳当たりの良い言葉より
こうした本質的なことを問われる言葉ですね。

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最後に、「励まされる」とはちょっと違いますが
同じく長田弘さんの『深呼吸の必要』からもう一遍、
ご紹介させて戴きます。

 

どこかへゆくためにでなく、歩くことをたのしむために街を歩く。
とても簡単なことだ。
とても簡単なようなのだが、そうだろうか。
どこかへ何かをしにゆくことはできても、歩くことをたのしむために歩くこと。
それがなかなかにできない。

この世でいちばん難しいのは、いちばん簡単なこと。

 

手の中のて

Academyのレッスンで、
指を一本ずつ回す手のワークをしていた時のこと
「私、手のなかにてがあるんだよ♪」と1年生のMちゃん。
「えっ?」と、最初意味がわからずに彼女の手を見てみると
確かに右の手相が「て」のカタチ。
「あら~、いいじゃない♪」というところから
その「て」の丸みのある部分から
親指を動かしていきました。

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親指は結構上手に回せますが
中指や薬指は他の指も一緒についてきてしまったりして
なかなか難しいということを発見します。

最初、右手を一通りやって
左手になると、あれれ、更に難しい(笑)
左手に意識を集中させ懸命に動かしている一方で
本人も気付かないまま、同じように動かしている右手の動きは
既に一度学習しているせいもあるでしょうが
右手に意識を向けて動かしていた時より
綺麗に回っています。

左手が一通り終わってから
「右手も一緒に動いていて、さっきより綺麗に動いてたよ。」
と話したら
「動いているのに全然気づかなかった~!」
と、不思議そうに右手を眺めたり動かしたりしていました(笑)

思い通りに動かせているような手も
案外自由に動かせないことに気付いたり
指はどこから動かせるかを知ったり
一度学習した反対の手が無意識のうちにも
一緒に動いていることに気付いたり
そして、そのように動かしていくと
少しずつできるようになるようだぞ…
ということを体験学習しました。

 

naturalization-world.com

アホなじぶんを生きる

メールの返信とブログを書くこと以外
極力オフラインで過ごす数日、
そんな隙間の中で、身体に向き合う時間が充実する。

オフライン開けに
時折、覗く「散歩」がテーマのエッセイに
楽しい記事が。

kangaeruhito.jp

いったい何が楽しいのか、さっぱり得体が知れないというか意味不明というか、端的にいってアホの集団と思われ、実に人間の本分をまっとうした高邁なサークルであると感心した。意味のないことに情熱を注いでこそ人間である。

 


じぶんも、そのアホの類だと思いつつ
世の中には同類がきっとたくさんいると想像し
そうか、本分をまっとうしているのか
うふふ、と笑って楽しくなる。

一見、意味の無いように見えること
意味がわからなく思えること
でも、そういうものにアホのように取り組んでみると
後から、予想を超越した意味がついてくる。

もしかしたら、ついてこないこともあるかもしれない(笑)
けれども、意味がわかってから何かをするだけでは
その時点の自分が理解できるものとしか出合えない。
それはやはり、世界を狭めていくことのように私は思うから
今日もアホなじぶんを生きることを楽しむ。

さあ、今度はどこに散歩に行こうか。

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